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地域再生の為の方策

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事業成果物概要

「地方地域社会の現状」

 地方、特に田舎関係の取材が仕事の中心だったお陰で観光客等が全く来ないような地域を随分と訪問させてもらった。後十年もすれば誰もいなくなって廃村になるしかないという中国地方の集落を訪れたのがきっかけで地方、地域社会の問題に考えをめぐらせるようになった。

 これから少子化が進み人口が減少していくのは確実である。100年で人口半減、いや50年で半減など諸説あるが日本の人口が半減した時に例えば島根県の人口は半減で済むだろうか。現在人口約80万人の島根県は日本の人口が半減したときには10万人を割っているかもしれない。その10万人も松江に集中し海岸線300キロに及ぶ広大な島根県には無人地帯が広がる事になる。そうすれば道路を含めた各種インフラを維持する事も不可能になり荒地が広がる可能性が大である。これは無垢の自然が蘇る事とは違う。日本の自然は北海道や一部奥山以外には人間の手が入った自然である。我々の祖先が長い年月を掛けて自然と折り合いをつけて営々として形作ったものだ。この自然はそこに住む人がいなくなれば失われてしまう人間と一蓮托生の存在なのだ。そしてその自然のお陰で人間は生きていられる。

 現在のような経済の流れ、すなわち先ず全てを大都市に集め地方に小出しにするやり方を変えるべきである。まるで地方が日本のお荷物のような感覚は間違っている。都市住民間にある都市が稼いで田舎が浪費するといった不公平感、地方住民の金も人材も都市が吸い上げるといった不公平感。この対立は不毛であり何も生み出さない。地方あっての都市であり田舎あっての東京なのだ。

 地方の価値を語る場合、理解しやすいのが食の話である。“安全でおいしい”や“食育“等のキーワードがさかんに用いられる。しかし食や水を供給するだけが地方の役割ではない。地方は都市に食べ物を供給するだけの工場ではない。

 食の大事さは個人のアイデンティティーに直結する事だと私は考える。自分は何者なのかを感じる原点のようなものだ。地方に住んでいれば自分が飲む水がどの山から流れてくるか米や野菜が何処の田や畑で作られているかも容易に解る。日常的に自分の体が形作られる現場を見ているのだ。

 都市住民はかろうじて自分が知っている日本の自然の中から作られたものを食べる事でこの最低限のアイデンティティーを持ち得ている。この日本のアイデンティティーを生み出す地方が今、急激な高齢化と人口の減少、公的予算の削減によるトリプルパンチでかつて無い危機的状況に直面している。急速に進む自治体の合併はその表れであり、地方の中の更なる地方を切り捨てようとしている。その結果、行政主導の集団移転=廃村化が劇的に進むだろう。つまり先に述べた無人地帯の拡大である。今地方の端の方から徐々に日本の壊死が始まりつつあるのだ。地方の死、それは極論すれば日本の死でもある。

地方地域の魅力を知る

 では田舎は死を待つだけの状態なのだろうか。決してそのような事はない。田舎は魅力に溢れている。自然の魅力、人的魅力、生きる知恵の魅力、100人の人が訪れれば100の楽しみ方が見つかる魅力、それが田舎には存在する。これは素晴らしいソフトである。このソフトは人を呼び込み人的な交流や経済の活性化にも役立つ事は間違いない。しかし現状では殆ど生かされていないのである。なぜ生かしきれていないのか、大まかに次の点が理由として挙げられる。

①地元の人の関心が低い。まさに灯台下暗しであまりに日常に近い事の価値は分りにく
い。魅力的な事柄であっても“こんなもの当たり前だから”で目を向けようとしない。

②日本人特有の謙遜の美徳。自慢を良しとしない風土は田舎ほど残っている。自分達の故郷に誇りは持ってはいるが他者にそれを敢えて言うのは控える。

③箱物行政の弊害。直ぐに立派な箱物を作りたがる行政の主導。素晴らしい自然の中に
  わざわざ人口の川が流れる公園を作ったり、博物館を作ったり、地元の人とは縁も無いハーブガーデンを作ったり、直ぐに大プロジェクト、土木工事にしたがる悪弊。

④役所の縄張り意識。自分の居場所を守る事が第一で新たな事へのチャレンジ精神の欠   如、外部からの参入者の排除。  
 
 この四点以外にも理由はあるだろうが一番の問題点は地元の人たちが自らの力で立ち上がる自助努力の欠如だ。安易なばら撒き行政に慣れ切った住民の意識改革が必要である。それは決して易しくもないが不可能でもない。自分達の力を認識する事、ここから全てが始まる。
 山村、農村、漁村と地方には多種多様な集落が存在する。何代にも亘って沢山の人達が生活してきた場所には元々或る力が存在すると私は考えている。これを仮に「地の力」と表現する。

 作物を実らせ、山や海の恵みをもたらす力は直接的生産力とでも言おうか。生活の合間にそこに住む人の心に潤いをもたらしその瞬間その場所を大事な自分の一部分と感じさせてくれる力。これら地の力は人間の内部にまで影響を及ぼすほど重要なものだ。ただしこの力はそこに住む人にとってはあまりにも当たり前の事であり意識しにくいものである。この地の力を先ず意識する事が自分達の魅力を発見する事につながる。

「マタギの里での実践」

 前述した地の力は外部の人間にとっては間違い無く魅力であり訪れたいと感じさせる源だ。そのような地域が日本国中に溢れている。何も人を呼ぶのは名所旧跡や世界遺産だけではない。手っ取り早くブランドになれば労せずして人が来てくれると考えてきたのが従来の観光である。これはエコツーリズムとは本来相容れない大量消費型の観光と言える。このやり方が通用するのは一部であり既存の観光ルートから元来外れているような地域では成り立たない。

 ではどうするか。地の力を具体的なソフトとして展開する事ができれば良いのである。つまり、最大限に地の力を体現できる地元民が看板になる事だ。その一例として秋田県の阿仁町での我々の活動について述べる。

 秋田県の中程に位置する阿仁町はマタギ発祥の地として有名である。町の看板は“マタギの里”であり町中に“マタギ”という言葉が見られる。つまり町自体はマタギを売り物にしている訳である。しかし実態はどうかと言うと“マタギ”という言葉が冠に付いているだけで中身は何も無いに等しい。

 私は長年マタギ達と交流を持ち彼らと行動を共にしてきた。そしてマタギというフィルターを通して阿仁町の魅力を体験してきた。この場合のマタギは人であり彼らの行動そのものである。具体的ではない“マタギの里”等という言葉には何の魅力も見出せない。素晴らしい山がある、素晴らしい川がある、素晴らしい滝があると言っても日本国中に同じようなものはあるのだ。遠くから時間とお金を使ってでも阿仁に行きたいと感じさせる程ではない。そこを勝負所にしては屋久島や沖縄や海外に太刀打ち出来る筈も無い。

 ところが阿仁町にはマタギがいる。ここにはマタギと山の民の魅力が溢れている。つまり地の力が阿仁町には溢れているのだ。

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